安物のビニル傘から雨粒が落ちて、黒光りするコンクリートに溜まった楕円に波紋を広げる。湿気でしわだらけになった小さなチラシ。モノクロームの地図が示すのは、確かにこの先だ。
まるで奈落に続くような、長い長い下り階段。
ひび割れ、欠けて、歪な輪郭の石段を。躊躇いながら降りていく。鈍色。錆色。藍鉄色。くすんだ色彩がパッチワークのように入り乱れる切り立った壁に傘の端をコン、コンとぶつけながら。終点に着くと、そこには貧相なアルミ扉がひとつ立っていた。
看板や表札はない。
もう一度ポケットに突っ込んでいたチラシを取り出して片手で開くと、雨がポタンと地図にぶつかって流れ落ちていった。
開けようか、開けまいか。地図を握った右手がゆらゆらと。逡巡する想いを代弁している。
細長い空から降り注ぐ雨音をしばらく聞いたのち、紙切れを傘の柄と指の間に詰め込んで。右手はドアノブを握った。
ひねって押し開いたその先は――暗闇。アルミ扉の隙間から我先にと光が手を伸ばし、灰色のセメント床に直線を描いた。
やはり、間違えたかもしれない。
そのまま扉を閉じようとすると細長い世界に急に何かが飛び込んでくる。覗き込んできたのは、くりっとした茶色の瞳。にんまりと開いた弓月の向こうに整った白い歯列が浮かび上がる。
「アンタ、バイトのひと?」
その人物は隙間から身体を離し、アルミ扉を内側から大きく開いた。
現れたのは髪の毛を真っ赤に染めた少年だった。少年の頭蓋には不釣り合いな大きさのごついヘッドホンを首にかけ、原色を散りばめたポップなパーカーを羽織り。履き古したのか、それともデザインなのかは解らないが所々破けたジーンズを纏っている。そのどれもが、彼の細い身体には似合わない、随分とだぼついたものだった。
「ハジメテだよね?さあ、入りなよ。簡単に説明したらすぐに取りかかってもらうからね。」
少年は目ざとく傘と一緒に持っていたチラシを見つけ、それをもぎとった。そして導くように暗闇の向こうへ歩き去ってしまう。仕方なくビニル傘をたたみ、アルミ扉のすぐ内側に立てかけ扉を閉めた。
真っ暗闇に包まれる覚悟だったが、そうではなかった。まるで洞窟に生えるヒカリゴケか深海をたゆたう魚のように、廊下や壁の所々が金緑色に発光し行く手を示している。
それは文字や記号ではなく手のひらに塗料を乗せて塗りたくったような無造作な印だったが、不思議と何処に向かえばいいのか判った。
ゆるりと明滅する緑を辿っていった先に少年は居た。高い天井から吊した裸電球の下で安楽椅子に胡座をかき、膝に乗せたハツカネズミを相手に指先でじゃれている。キイキイと軋んだ音を響かせ振り子のように揺れ動く彼の向こうには、金属で作られた小部屋があった。
銀鼠色の鉄板で覆われた四角い箱は人間がふたり入るのがやっと程度の大きさで。それが《小部屋》だと思った理由は小さな扉がついていたからだった。
大人だと身を屈めて入るようなその鉄扉は堅く閉ざされており、長方形の覗き窓がひとつ付いていた。風もないのに僅かに揺れる裸電球の橙がかった明かりが無機質な立方体にぼやけた円を映し出し、安楽椅子と同じく揺れている。箱の向こう側は闇に閉ざされ、部屋全体の大きさも、自分がどんな場所に立っているのかも解らなかった。
視えるのは、時折ちらつくあの橙が映し出す景色のみである。
「ああ、やっと来た。」
少年はハツカネズミとじゃれ合うのを中断し、安楽椅子のすぐ側に設置された簡素な木机の上に置かれた蓋付きのガラス瓶に目を向ける。古い映画で見かけるようなレトロなキャンディボックスの中には、キャンディと思しき色とりどりの何かが輪郭を滲ませて詰め込まれていた。
少年はガラス蓋を持ち上げひとつ口の中に放り込むと、それを頬の内側で弄びながらこちらに視線を向け、大きく可愛らしい瞳を細める。
「アンタの仕事はものすごく簡単。ただ座って色んなひとのハナシを聞くだけ。そんだけで日給イチマンエン。もちろん日払いだから安心してよね。」
少年の膝でハツカネズミが甲高く鳴き、小さな四肢で器用に身体を伝って肩まで上る。首に下げたヘッドホンの橋を渡り反対側に躍り出ると、あっという間に木机の上に飛び乗った。
「仕事場はあの四角いハコの中。ちょい窮屈だけどイチマンエンのためだもん、我慢してよね。」
何だか楽しそうにぺらぺらとしゃべる少年は、そこで口の中の球体を反対側の頬へ移動させた。
「あぁ。中では絶対声を出さないで。相づちもダメだから。じっと黙って、ただ聴くだけでいいんだ。――ハハハ!何を聴かされるんだって顔だね。此処に来るバイトさん、みんなおんなじ貌するよ。ニンゲンってほんと退屈な生き物だよね~。」
ガリ!と大きな音がして、少年の頬を膨らませていたものが消えた。彼はそれを容赦なく咀嚼しながら安楽椅子の背にもたれ掛かる。
「あのね、この世の中ではフシギな事がたまーに起こるでしょ?此処に来る人たちはそれを話すためにやってくる語部。アンタはその聞き手。別に中で聴いたことを外で話したっていいよ。外で、ならね。」
少年はそう言葉を結ぶと安楽椅子の上から飛び降りた。彼の身長よりも低い金属扉の前で屈み、ノブをゆっくり回す。金切り声のような耳障りな音を立ててその重い扉は開いた。
背中を、いやな汗が一筋伝う。
「相手の顔は見えないようになってる。まぁ、あれだよ。《ザンゲ室》みたいなもんだと思ってくれれば、サ。それじゃあよろしく。バイトさん。」
箱の中は真っ暗だった。少し慣れはじめた目はやっと丸椅子らしきものと向こう側とを隔てるカーテンのようなものの輪郭を朧気ながら捉える。躊躇する足を、少年は急かすようにじいっと見つめていた。
おずおずと身を屈め、小さなアーチにぶつからないように頭を下げる。身体の半分以上を中へ入れたとき、背中の向こうで少年の声がした。
「あ、言い忘れた。あのね、バイトさんが何を聴いて後でどんな目に遭っても、トーホーはなんのセキニンもとれませんので。あしからず。」
振り向こうとした身体を押し込むように勢いよく扉が閉まる。
一気に襲ってくる、暗闇。
何とか手探りで丸椅子を探し出すと周囲を警戒しながらそこに腰掛けた。途端にカーテンの向こうに人の気配を感じる。
どうやら最初の客のようだ――
シンとした沈黙が痛い漆黒の中。隔てた向こうの《語部》は最初の言葉を紡いだ。
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